体験について 1



 神秘体験は、自分にしか分からない。当然である。たぶん、体験した人にしか分からない。たとえば、その時、病気の身体が治癒するのだ。なぜと言われても、科学的には分かりにくいだろう。そして、経験と言わず、体験なのだ。














物質化、創造について 14





 精神からの創造だから、細胞、汗云々、精子卵子、物質化、自分自身。


 単純なのだが。自分自身とは、精神的だ。
















否定的、ネガティブについて 4


 自分が苦しかった時の、救いの方法が良いのだ。人を救うのは良いのだ。


 否定的な人格の状態の時の人が、否定的な方法であろうが、その人が救われるということは、あるいは、肯定的なことで救われないのだから、また、それはさらに的を得てくる。その方法が、肯定的なのだ。


 だから、肯定的な状態の人には、肯定的な方法も、否定的な方法も必要ないのだから、論外である。


 そして、それはいじめにも、パワハラにも通じてしまう方法である。


 もう一度言おう、肯定的な状態の人に、その手の方法論は、哲学は、ナンセンスではないか。肯定的であろうが、否定的なことであろうが。そして、馬鹿強い人に、あるいは、悪い奴ほど、長生きする。嫌われているから、否定的な施しを受けてしまっている。うん…。私は何を言っているのか…。……。


 忍耐強くありますように。良心良心良心。

















立法者について 1



 歩く法律。


 切り捨てごめんが通る者である。













精神的霊的力について 13



 薬の力は正当、悪意を認めず。精神の力、人間自身の力は、悪意を感じるのか。


 物に罪はなく、人の意志が問題だ。


 人の世界の善悪という相対性。


 気で治すことができるのなら、気で反対のことができるだろうと思えるのである。


 善意なら、という気持ちは、気を付けるべきか。

 他人には効き目はなくとも、自分には暗示的でるからである。


 他人への魔術的悪意は、暗示的に方向性がネガティブに向いてしまうからであるのではないか。


 このような力は、他人には効かないが、自分には近代常識的に効いている気がする。













精神的エネルギーとか物理的エネルギーとかについて 12

 植物から恩恵を受けているのは人間だけではないが、我々は精神的に恩恵を受けている。



 昆虫などは物理的に受けているが、人間は生で直接口には出来ないし、出来ても数は知れているし、生ものとしてでも、包丁等が必要である。



 この辺りが、精神的神秘学的エネルギー源と、物理的俗欲的エネルギー源という、二元的考えは神秘学的入り口ではないか。オカルト、原始的カルト、宗教、神話、童話などなど。



 なぜか、むなしさを感じる。若い子供のときのこの手の心の矛盾は、この精神世界への考察に精神的に触れたときのむなしさではないか。ただこれだけのことなのだという虚しさだ。



 そして、電気的なこと、直接には触れられない。というか、微量に精神的に触れる分には何の害はない。あるいは害は少ない。もしかすると健康器具的になる。



 神とか、宗教とか、原子力。宗教的ではないが、道徳的、倫理的、神とか、宗教は理神論的にさておいていて、経済的に社会に貢献する。多くの労働者を抱えて、養うような会社とか人物とか。



 触れられない世界、わずかに触れる、あるいは、グローブをつけて、またルールに則り競う、戦うスポーツマン精神。


 わずかに触れるだけなのだろう。



 精神的にはむなしくもあり、さみしくもある。が、物理的には、幸福で、裕福だろう。











精神分析について 1


 他人から観れば、私の過去なんて、物語や、小説を読んでいたり、漫画を読んだりしているようなものだ。



 もう少し高級な言葉を使えば、その人が劇場にいるようなものだ。



 クリエイトだ、クリエイトだ。











魅力、魔力、暴力について 2


 マスコミュニケーション、所謂、マスコミといわれた。


 または、マスメディア。




 対比された言葉は、パーソナルコミュニケーションだった。


 今、中学の教科書には、どのような文章で印刷されているのだろう。











責任について




 許可を得てから行うということは、そこに責任があるからである。


 許可を得ずにやるということは、責任はそこにはなく、ここにある。


 許可を、賛成をしていなければ、そこになく、ここである。


 聞かないということは、ここにある。


 知って、知らぬ振りとなると、評議する必要がある。


 是が非かは、議論、論議は結論であるが、結果次第である。


 これは結果が出ていない証拠である。


 論議、議論する必要がないのであるのなら、ある程度、結果があるのであるが?











未来について 1



 遠い未来は、見えるのに、近い未来は見えないのではないだろうか。


 未来・・・・・・。



 また、近すぎる未来が見えないとなると、話は違ってくるのである。明日が・・・・・・。である。


 しかし、若いとき、死というものをはっきりと分かるだろうか。私は、今、五十だが、やっと考えられるようになった気がするのである。そして、当然 健康で長寿を考える。










奢り、驕りについて 1



 心をもてあそぶゲームにおいて、勝った人がお金を持っていこうとすると、みんなで分けましょうとか、そのお金どうするんですかは、ないだろう。言葉尻からも、無料ですむわけがない。それも、そのルールを作っておいて、それを守るべき、契約者がお金の出し惜しみをしたりすることは、卑し過ぎると思うのである。参加者は、一生懸命にやっていればいるほど、そんなやつらにおごる気はしない。おごらない人が卑しいのではなく、おごってもらおうとする人が卑しいのである。

















相対的について 3


 すでに、みんなが行っていることに、わざわざ訴えるのは、改革的ではなく、唯の便乗である。そこで、善人ぶって大騒ぎしても、相手にされないのは、至極当然である。


 平和なら、わざわざ騒がないでほしいものである。


 そして、ああ言ったこういったなんてやっているのは、退屈の虫が騒いだだけではないのか。


 平和とはいえなく思えてしまうだけだが、そう思えてしまっても困ったもののようだ。


 なにもないところから、何かはあり得ない。平衡は、平衡のままである。


 しかし、発展、進歩、進化には悪いことはしないことは当然のことだが、よい肯定的、建設的な進歩、発展、行いも、結果も必要である。












相対的について 1




 人間界にのみ善と悪があるようだ。動物界にも、鉱物界にも、植物界にも、人間のような善悪観念は当然ない。


 果たして、全てにおいて、そうなのだろうか。宇宙は相対的なのではなく、ありのままにあるのではないのだろうか。人間は観察者であるがゆえに、相対的なのかもしれない。











喜怒哀楽について



 人間がああだ、こうだ考えずとも、宇宙はそれに値するほど慈悲に富んでいる。


 また自然は、悲しみも、慈しみも、多く見てとれる。


 そして、喜怒哀楽があるのは、人間だけではない。














領域および側面について 4


 魔術的な領域と、神秘学的な領域は逆のベクトル的な方向が存在するのかもしれない。



 しかし、まあ、所詮、人間的な考察であるから、どう捉えようと、その域はでないのであるが











領域および側面について 3




 領域、側面、plane、宇宙意識、立方体でさえ六面あるのだ。面には、裏表あるはずなのだが。六面である。十二面ではない。十一面?M次元?それとも、マジカルなM?幻想とも言えそうなこの世界。この膜世界。この膜をまいて、撚れば紐になる。そして、ワームホールは、幾何学的に閉じたひもとなる。線は、曲がっていても、いなくても最短距離とは言えそうもない、相対論。


 意図しない領域、無意識界は神仏の領域ともいえる。瞑想時は一体となりうる。


 陽極まれば陰、陰極まれば陽。


 二次元の世界は、三次元から見れば、三次元に思えて、厚さがあるように思える。二次元の世界から見れば、1ミリたりとも厚さの方向へは動けないのだが。また、だから、二次元なのである。そして、厚さの見えるはずの方向から見れば、見えないことになる。人間の側から見れば主観。二次元の側から思えば客観。


 光は、粒子と波である。また、不確定な量子。


 プレゼンの場では、あるいは会議の場では、自分がやり玉にあげられない、客観、観客、観光客でいたいのである。お客さんの立場という意味では、どうもとらえきれなかった上司的な気持ちは。これは、冗談か皮肉である。