守れぬ限り、何の価値もない。救えない限り、幸せはないのである。守護せぬ限り、天使に何の意味なく、救済せぬ限り請願に何の意味もなく。
予言が的中して忙しくなるのは、建設業である。多分、しかしそれは、予言ではなく自然現象であり、自然の法則、摂理である。推測である。周期性。そうでなければ戦争である。守った方が勝ちなのである。
占いは、直観である。運命は、啓示である。決定論は、死という宿命しかなく。人間に寿命があることのみである。因果とは、法則である。さて、予言とは、無為であり、意味がなくなってしまっていないでしょうか。ということは、人間の宿命を諭した、死語でないでしょうか。
言葉、知識であるのだから実践智(般若)の粋を出ない。払いも儀式も形式という厳格な実践智に過ぎない。間違いがないように執り行う威厳において実践智である。直観も超能力もインスピレーションも啓示も啓蒙も実践智に過ぎない。間との言葉を言い換えれば上記の言葉になるのである。模範は人間を測る尺度となるのである。インスピレーションも、直観も、六感も実践智。よって、その延長である予言も実践智である。予言ではなく予知。予言とは、宇宙の法則の中のことでであって周期性、云々なのだ。この法則から外れることはない。人間の意識など創造主からしたら無いに等しい。
宇宙の法則が悪いほうに進むのなら、人間など生まれはしないだろうし、進歩も進化もありえない。それが宇宙の意志なら、人間の意志もそうなのである。人間の意識は、宇宙意識の反映、流出なのだから。
人間は時空を超えた意識という、意識の進歩という力を得たのだ。意識の進歩であって、予言という破壊的な意識ではない。また、それは予言なのではなく、法則を理解しただけなのだ。簡単に言えば、ただの周期。いうなら必然。人間がそう意識したからそうなるのでもない。
666獣は、防衛本能である。占いは、人間の性質の要素である。予言は確立の粋を出ない。言い換えれば、そう振る舞う。
そんなものを人間が持っていたら、人間の存在は、もっと変わったものになっていただろう。あるいは、存在自体が、ないかもしれない自己破壊的である。そして、進化の過程で喪失し、なくなったか。
次に私は、霊界、宗教について語らなくてはならなくなるだろう。しかし…。未来に宗教は、今と同じ見方、観念、概念があるいは真実・真理が今と同じように神や仏について語られるであろうか。物質世界でも同じように語られるであろうか。
私はここで思いつくのである。カントは、何を批判したのだろう。
天才・・・。インスピレーション…。啓示…。実践智の侘び・さびの粋を出ていないとでも言おうか…。
衝動買いか、最先端を選ぶか、先を読んで買うかの違いである。
言い換えれば、五感によるものか、理性によるものかである。
だから、脳は理性にさらしておく、浸しておくべきである。そして、知性が、恵をもたらす。知恵である。理性を拒めば、野生的であり、五感を拒めば、いわゆる鈍感である。フェロモンも嗅げない。平衡、バランスである。五感は、先天的であるが云々。
「魅力がないだけ、遺伝子が近すぎた。」
しかし、どこまでが先天的なのだろうか?
有機的感覚まで、 無機的感覚まで?
一般的意味論? クオリア? 物の本質?
贅沢の部類論、あるいは、無意味。不可知≒無意味。
この胸の、萎縮。
昔からだ。
矛盾?
予感?
予知?
恋?
何か間違っている?
正義感?
やりきれない気持ち?
嫌悪感?
緊張?
照れ?
人見知り?
雰囲気?
驚き?
恐怖?
最近やっと、分析できるようになってきた気がするのだが。
それに従うか従わないかは、善悪、自由意志で決めるのである。
「良心の声」が決めるのだ。
今さら人間の予感、あるいは予言にあたふたした自分がいた。
神ならまだしも、人間の予言である。
悪い予感、胸騒ぎしかわからない人間の予感である。
良い予感、良い未来の予測すら、なに一つわからないのではないかと思われるこのご時世にである。
人間に、未来の何がわかるのか。
未来に何かが起きるような予感ではなくて。死が怖いのではなくて。今・この瞬間、何かが、起きたり、死んでしまったりという危険を何かが、察知して、注意を促しているから怖いと思うのだ。
幸福を危険から守ることも、その危険から、離れることもできるのである。あるいは、じたばたせず、沈黙してやることである。この世の幸福は黄金なのだ。そして、それはこの世の価値ではないだろうか。
悪魔の囁き。
予言の要素。
意識が超能力だろうと洗脳だろうと催眠術だろうとサブリミナルだろうとサイコノートだろうと阿吽、うん、おん、で応えることである。たとえ他人に思えても自分であっても。犬〈狛犬〉はワンとしか吼えず。鳥(鳥居)は、いつも同じ囀りで、それでも通じ合っているのである。言葉などないのである。松は一年中緑である。
仏陀、涅槃である。ブッディ、ニルヴァーナ。
内部自我、良心の声、一時的な出来事。悪から、離れることも、守ることも出来るのである。
意識が超能力だろうと洗脳だろうと催眠術だろうとサブリミナルだろうとサイコノートだろうと阿吽、うん、おん、で応えることである。たとえ他人に思えても自分であっても。犬〈狛犬〉はワンとしか吼えず。鳥(鳥居)は、いつも同じ囀りで、それでも通じ合っているのである。言葉などないのである。松は一年中緑である。
仏陀、涅槃である。ブッディ、ニルヴァーナ。
直観は予言ではない。
解脱?何から脱したのだろう。
仏は光である。知恵である。
神は…。同じである。
あまねく全てのものに。紙一重である。
魔法使いは、神になるというのである。
私はそうとは思わないが。迷信。
ラーマ・クリシュナは何から…。
解脱…。
要はその場限りのことである。
思考支配である。是非を問うてみたい。
嫌なら、沈黙してやるのである。
あるいは、地獄から抜け出すには、振り向いてはいけないのだろう。お払いをしたら、もうそのことは考えないようにするのである。
テレパシー自体に力が云々ではなく、それらの心に力が云々なのである。
天才は透写(書き写し・なぞり書き)をしない。
想像なのではなく、創造なのである。
精神的支配者において、戦争をしない支配が、可能かどうかが課題であろう。
インドとオレンジ公の名誉革命。
イスラム教と北朝鮮と、土人。
自由、ジハード、平等。
労働?ボツ。資本主義?精神的支配?
サイコノートがコンピューターの場合、最初に数字を入力して、後は変換名をイコールで結ぶだけである。
例えば、微分=ルベーグ積分=リーマン積分=絶対値=ノルム=シュワルツ=バナッハ=ヒルベルト=ユニタリ=ハートレー・フォック=ラグランジュ=ルジャンドル=ハミルトン=ポアソン=シュレーディンガー=プランク定数と、こんな感じである。名前と=で、答えが出る。イコールではなく、プラスにすれば防げるのである。
馬鹿が留まるのか、天才かである。はてまた無機な、コンピューター自体か。
今日も飛んでいるサイコノート。(‘08 10/10)
思考のみは、サイコノートなのである。(08/11/16 18時28分)
人間の五感(客観的意識)を誤魔化せても…。(08/9/27 19時0分1秒)
宝の山かと思って探してみれば、昔のゴミの山。新しいものなど何もない。ニュー・ソート?新しいデータなど何もないのに。
文明を発達させたのは、犬の嗅覚でもなく、蝙蝠やイルカの聴覚でもなく、鷹の視覚でもなく、草履虫の触覚でもなく、仏の味覚でもなく、神通力を使う天狗でもない。如何考えても、時代遅れの手遅れである。MRI等?などではないのだろうか。(08/10/7 10時58分)
宗教はエゴである。「それでも救いはある」「慰めである」。天狗は、開き盲である。超能力は盲の力になるのである。「黙れ」「されば汝、静寂とさせ給え」。(08/10/7 12時3分)
なぜ人間は、こんな力を使うのでしょう。ただ邪魔なだけなのに、もっと高貴な世界があるのに、俗世界に留まるのでしょう。欲の所為…。Aum.
(08/10/11 6時35分)
超能力なんてものは、地獄から這い上がる蜘蛛の糸を切るはさみのようなものだ。上がろうとするものの足を引っ張っているようのものだ。(08/10/15 6時34分)ブーストを切り離せ。(2009年12月1日)
*二つのフィルター(ホロ)、二つの目(3D)、それ以上フィルター(思考)(超数空間)が現実。よって、ひとつのフィルター(単純)が、超能力(幻影)である。同じフィルター(アイソグラフィー)では、駄目なのである。別世界でも通用するようにされた(重ね合わせ)フィルターが、現実なのではないだろう
それは、宗教的な世界をまとめなければ、平和がないからだ。
特殊な宗教から、国連へ。
スピリチュアルな世界の平和ということ、一般的な世界、精神的霊的な世界で、平和でなければならないのである。
人類は、神へ疑念と憧憬とその他諸々の思いの歴史がある時始まったのであり、その前には、霊的な自然への驚異と不思議がすでにあったはずである。ある時は、崇敬が、ある時は畏怖がすでにあったのである。ある時、探求、探訪が始まった。そして科学は、地図もなく、標識もなく、知る人もいない所在へ、冒険ともいえる神の領域、未知への挑戦、自由意志がはじまったのではなないだろうか。そしてそれは今も続いている。これは、神格への反逆、謀反、冒涜。金星の、ルシファー…。失楽園、未知への旅、神曲。これは事実だと思う、少なくとも私の意見では。これは誰が何を言おうと史実なのではないだろうか。
さて、なぜ人間は誕生したのであろうか、言い換えれば、なぜ、生んだのだろうか。なぜサイボーグに生まなかったのか。無機物が、有機物になるように。しかしそれは、苦しみもなく、悲しみもないものが、それを持つことである。どうだろう?退化だろうか、進化だろうか?これから人間は、進化するだろう。そして人間は、どう進化するのだろうか、また、進化させるのだろうか?
また人間が、神になり人間を創ると言うのだろうか。悲しみのない、苦しみのない…。
しかし、無機物に生命が入るとはどういうことだろう。その精髄は…。
ひとつ言えるのは、神を把握しているのは、人間だけではないだろうか。
ひとつ聞いてみよう。
「なぜ生んだのか?」
「生まないではおれなかった。あなたが生まれたかったのではないの?殺そうなんて、これっぽっちも思わなかったし…。」
これを誰が読もうと、読むまいと、どう思うとも、誰にも何の、罪の罰もないと思う。そしてそれに対して誰がなんと思おうと何の罪もないと思うのである。ただあるのは、精神には罪を犯す可能性があり、肉体には、過ちを犯す可能性があるということである。
学びは、ゲームのようなものである。だから、楽しくもあり、お金のいることもあり、負けることもあるのである。必ず勝つためには、あるいは、負けないためにはあまねく学ばなければならない。それには時間も必要だろう。しかし、ゲームとは言え、負ければ悔しいのである。ゲームなのだからと安心していてはいけない。そんな話しは、言うに及ばないはずである。社会も同じである。なぜか、学びも社会も安全なルールの中で行なわれているといえるからだ。そう、法である。法は偉大な先人たちの哲学と、思想・主義からできていると言える。また、愛からできているといえるだろう。しかし、なぜ、愛なのだろう。また、なぜ、愛という主題に対して、これだけ多くのことを語らなければならないのだろうか。そんな社会という集団のなかで憎しみが生まれないわけが無いのではないだろうか。したがって、果たして、我々はこの社会で、愛を見つけるのは、難しいのだが。また、学ばなければならないことなのである。しかし、愛、憎しみ、その真理とは。
愛は、集合であるので、その要素は、普く行き渡っているほどその要素は多いのである。言い換えれば、原初から、創造主の愛で創られているのだから、愛で満ち溢れているのである。
だから、敢えて探そうとすると、見失うのではないだろうか。愛ではないものを探してしまうのである。神は居留守ではない。探す人が、開きめくらなのである。
愛はエロスの愛、アフロディテの愛、…。
無情さを感じない人はいないだろう。
探さず、信じるしかないのである。
創造主の僕、…。
それ以上へ…。
イ)愛以上について
愛以上の聖なる法則 。
人類が得てきた、それらに関する知識。
ロ)愛は全てに勝る。
意味の取りようによっては、人間の善より、最高善より、善も悪もすべてという意味に取れるのである。強ければ善いと、取れないだろうか。
事実、愛は時に、激しいのである…
8)愛知について
自分もそうですね。
ただ、理解できていれば敢えてやる必要もない。
自分は、理解できていないから、一生懸命理解できるまでやっているのかもしれないなぁ。
理解できていないと、その言葉に出会ったときなんか面倒くさいけど悔しいからまた調べる。いつかまた出会う。理解できていると嬉しい。解からないまま放って置くと、その言葉にまた出会う。なぜか、良く使われている。この言葉に何かありそうな、縁でもあるような気がするほど。言葉が「覚えてよ」とでも言っているような…。
愛着!あはは、メモ…メモ…。
こんなコメントでいいかなぁ。
9)憎しみについて
愛と憎しみは、別物である。反対ではなく、重さが同じ様なものである。だから、憎しみをともなう愛は、清算され、愛では、無い、のである。
これで、愛は真理となるのである。自殺然り、心中然りである。そして、その論理は、愛Kg=憎しみKg=死Kg 創造主の愛は、全身に満ちている。ということになるのである。イコールとするからといって同じではないのである。愛-死=0であり、無。愛では、無い、のである。憎しみのともなう愛は、愛をチャラにし、死をともなう愛も、愛をチャラにするのである。愛のみで満たされなければならない。二項対立するものは、真理ではないのであるから、そこから、そしてそこから、導き出されるのは、慈悲であり、慈愛であり、最高善であり、至高の世界なのではないだろうか。言葉では言い表せない、理想であり、それは、永遠に続くのであり、人間は常に、永遠に続くその途上にいるのである。人間が、進化すれば、人間ではないのかもしれないが。
10)家族愛について
執着は、×…。
霊的に他人である家族は、肉体関係無しの愛という高次の愛たるのである。
11)友愛について
恋敵でもあり、ライバルでもあり、友達でもある。
愛は汝と我の間、それは神の国にある。それは、憎しみにもなり、死を伴うかも知れず、愛にもなりえるのである。プラトニック・ラブ、精神的愛は、王女、女王と騎士との美徳でもあったのだ。
そしてボノボの同性愛。自分で文献を調べてください。
愛=死について 1
屍は、消え、ソウルのみ残る。続いて、ソウルイコール愛なのだろう。そしてまた、単純に、死も愛と同じ重さ、広さ、長さなど、である。愛には比類するものがあると言うこと。憎しみなど、まさにその観念から推測できるのである。単純に愛がすべてではないのである。勘違いしないように。単純に油断は禁物なのである。愛は、常に助けようとするから、その兆候を、逃さないように。
愛と自由について 10
自由は思考、考えることから事から生まれた。
働き蜂が自由と言えるだろうか。働き蜂に、死という概念を意識、思考、考えることができたら、あの行動ができるだろうか。逃げようと思えばできるだろうに。
犬は、少し自由だ、蜂よりも。首輪から逃れられる自由があるから。
愛は盲目の蜂さん。
愛と自由は相反する…だろう。
愛について 結論?
愛とは、見捨てないことである。
イエス・キリストの愛と、死と生命について 副題「愛と死の同一性について」 9
生命について
人間の体は、鶏肉、豚肉でできている云々。
人間の命は、他の生命の死の上に成り立っていると言って過言ではない。母もそうである。しかし、母の肉体としての、内蔵としての自分の肉体はすでにそこにない。=死。精神的霊的なもののみ自分であるといえる。父と子と聖霊と。三位一体。人間の“肉”は所詮なのである。
神の国、天国は、涅槃は、あの世にあるのである。愛と死は同じである。と言わしめる所以である。マリアの神聖さに欠ける所以である。
肉欲の愛なく存在せず。 理性の愛により、存在せず。 仏性無く、存在し。 創造主の愛無く、肉欲なし。 創造主無く、存在なし。 愛欲無く、存在せず。 仏はこの世に未練なし。
死ぬときになって、自分はなぜ人間に生まれてきたのだろうとか、人間はなぜ人間なのだろうと改めて悩むのではないだろうか。なぜ生まれてきたのだろうと、死ぬときになって、多分、真剣に悩むだろう。何のために生まれてきたのだろうか。何か、俺はできただろうかと。
悩まなくとも、考えるだろう。
愛と死の同一性について 10
子を死をもって守る母親の如くである。これも愛に通じ、愛欲の一種ではないだろうか。私は男であるから分りにくいのかもしれない。女性にはそうなのだろう。そして、男は、愛のために死ぬのではなく、戦うとか、殺すことも当然するのであり、してきたのである。戦争であり、食欲である。死の上に生は成り立っている。
愛は.・・・。
愛と金とジン・テーゼについて
愛と金は、何人に配れるだろうか?
友愛について 3 副題:親しい友人か、親戚に限るにおいて
親しい友人になればいい。それだけのことである。
親戚になればいいのである。
誠実に!
〈光〉〈命〉〈愛〉について 1
〈光〉、見えるがつかめない。人はそれを遮ってしまうこともあるのだ。
〈命〉、与えられたのに、それが何か分からないでいる。いつ与えられたのかも、気がつかない。気がつけない。
〈愛〉、人間はそれに気づくが、それは創造主なくしてあり得ないことにも気づく。人間は創造主なくして存在しないからだ。
好きについて
愛しているけど好きじゃないについて
「 愛してはいるけれど、好きじゃあない。」
パワーハラスメントに対する防護でもある。
怖いから、好きな振りをするのである。
「馬鹿な男は勘違いするから気をつけよう。」自分もそうであったのだが・・・。ごめんなさい。
また、愛しているから、ただ護るのである。
人類愛以上である。
認識、認知の違いではある。「愛しているのはあなただけよ」「好きなのは友達も好きでしょ。」という言い方もあるのである。にくい奴など所詮愛したくはないのである。これが高尚、高次元の高次の愛になると違うのである。最高善、至高善、中立状態。
まず人は、愛を恋愛感情から疑問を持ち始めるのではないだろうか。そして、答えの無いまま社会に出て行かなければならない。裏切り、分かってくれない、自由…。不安と期待の中で、理想を夢見るのではないだろうか。その中身は、憎しみであったり、新しい恋であったり、死にたいと思うこともあるかもしれない。また、他人の死であったり、愛と嫉妬であったり、職場の人間関係、同窓会の友達、親友対、家族などである。さらに、生まれたことに対する諸々の懐疑も再び芽生えるだろう。以上の点を守るという真理を立てて熟考していきたいと思う。
女心…
燃えるような…
羨むような…
恋したい…
一度でいいから…
いつも恋していたい…
恋愛…
あなたの!…
愛したい?
愛されたい?
恋したい?
恋愛?
相思相愛?
恋愛と愛?
恋がしたいの?
巡り逢いたい?
男が恋したいと言うだろうか?
あなたは、守ってあげること。
死んだら、あなたは彼女を守ることができるだろうか?
また、生きて、遠くからでも守ってあげることが、愛ではないの?
あなたの、死は、彼女を殺すに等しい。
犯罪に等しい。
彼女を愛するなら、最後まで、愛さなければ!
守ってあげなければ、あなたは、嘘を言っている。
愛ではないということになるよ。
良く考えて!
誠実に、あなたの友だちより
自分も守らなくては、守ることになりません。
恋は過程であって結果ではないのである。過程だけ求めるから振られて終わるという繰り返しである。要は過程だけ楽しみたいのである。
死にたいと思うのは、殺せないから法で裁いてもらうようにして、相手を犯罪者に仕立てている。彼女の所為にしているのだ。憎くなるようでは、すでに愛ではないのである。教育が間違っている。言いかえれば、自愛であり、慈悲ではないだろうか。恋をしたい女は、恋をしたいのであって、愛したいのではない。恋はプロセスだが、そのプロセスを楽しみたいだけである。理想は果てしなく遠く、そこへのプロセスも果てしない。理想の人間は、多分人間とは言わなくてもいいような、進化を遂げているかもしれない。
さらに、自分が、恋しい人を憎めば、恋しい人は、王子様、救世主を求めるだろう。愛を真理とする人にとって、愛に側面は無いのだ。はっきり言えば、主観も客観も無いのだ。だから、世界は、二人のために回るのだ。愛していたという過去形なら、神が見捨てたようなもので、終末論である。再び愛救世主を求める。
鳥や昆虫は人間ほど小言を言わず、一生懸命生きている。そう見えないだろうか。動物や昆虫が争っても地球は滅びないが、人間が、争えば地球は滅びかねないだろう。
世の中が完全だったら、鳥も昆虫もいないだろう。そして、人間もいない…。といえるだろう。それを化身というのかもしれない。