人権と義務、権力と金と服従、使命について 1


 人間の権利の主張が、大多数となるとき権力と言えうるのか。金が集まるところに権力があるのか。使命が、独占という力の作用の金によって露になり、それが支配するとき、人間の権利ではなく、金の力となるのであるが、国家という象徴の目的、あるいは使命で、その金は、力は、権力となりうるか。権力と服従、権利と義務、手段と目的について、詳述してみたい。


 まず、なぜお金で政治を動かしてはいけないかである。お金で正義が、曲げられるからであるが、金のない人間は、お金で動くのである。一票入れる気があってもいかない人間が、行きうるのである。お金のために殺人もする世の中なのである。人間は完全な正義で計られれば堅苦しく思うのである。人の尺度であれば、良い意志を持つ人には、模範がある。悪も許せない性格なのだ。そして、金が足りれば要なしなのだ。そんな、いい加減なことが、まかり通って言い訳がない。許せるわけがない。慣用が必要なのだ。お金によらない清き一票である、金ではなく、一人の権利と義務において、あるいは、金の集まりではなく、人のあつまりなのである。独裁ではなく、組織あるいは、組合であるそれを構成するもの、その象徴にお金があつまるのである。みんなのお金、税金である。その平和という象徴は、福祉であり、健康であり、友愛など諸々を表すのだ。平和であり幸福なのだ。税金は、国家という組織と、組合の平和の表れであり、年貢ではない。


 我々の使命は権力、あるいは国家権力にあるのではない。世界人類なのだ。個人としては、人間の権利、義務にある。また、宇宙人類として。それを考えると、メディアなど国家権力の狢に思えるのである。


 我々は、封印した、された、したのかもしれない。我々…。我々は、トップに権力があるのではない。象徴なのだ。その後ろにいる人、人間が支えている。お金は、構成の居場所という存在の永続のためなのだ。


 お金は結果であって、目的、原因であってはならない。政治は、手段であって、目的は平和である。決定論的ではない。それは決定するのは人間ではないからだ。政治に決定論はナンセンスである。結果がお金と人間が決めてはならない。政治の場合。


 権力は、暴力に対してであり、弱いものに対してではない。


 義務は、愛である。


 権利は万物万有が持っている。


 手段は正義でなく、良心でなければならない。


 目的は、理想である。


 服従は、良心にである。


 使命は、すべて守ることと、苦痛がないようにすることである。


 支配者は、完全な善である。


 生きることは、人間の楽しみ、神との合一である。死とは、一所懸命やった後の、眠りの快楽、忘我、恍惚である。


言い換えると、お金は、弱さという原因を隠し、

権力は、国家を正当化し、

義務は、服従を隠し、

人権は、動物に対するカルマを隠し、

目的は、力不足を隠し、

手段は、強制を隠す、


 私は、自分の意志が、隠れていた。私は、私という存在という居場所のための、お金である。全身全霊傾けるところが欲しいのである。


 お金が悪いのではなくて、使う人が悪い。政治はボランティアにおいて、贈与税の問題である。お金と戦争という問題。


 武器を買ってあげますから、戦争しましょう。政治的教育はプロパガンダであり、偏見が伴い、熱狂しては困る理由で、政治が絡むと。


 政治にお金の授受があってはいけない。公務員が税金で金儲けをしてはいけない。二束のわらじである。ある特定の人でもいけない。国民のお金であって、個人のお金ではない。


 思想と良心の自由に反し、幸福の追求の是が非。贈与、無記載、会社の金私有化。公共事業の私有化。国を治めるくらい悪いやつでもできるのだ。



 何からの自由だったのか、何が平等なのか。何のための革命だったのか。何に命を掛けたのか。国際的理念の確立とは。













"人権と義務、権力と金と服従、使命について 1" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント