自由について 12
絶対において、選択という言葉の概念観念自体、必要なのだろうか。どうにでもなる神において、絶対者において、神の中にあれば、あるいは、同調しているのであれば、いわゆる合一していれば、その時、相対的なものはないのである。神の不自由はない。となれば、選択など必要ないのである。
今、現在の選択と問われても、永遠と対象の、今現在の事柄等を問うことは、ナンセンスなのである。
ただ、人間界から見ると、あるいは、もっと言えば、単に方向性の人間側から観ると、相対的な世界からと言いますか。
そんなことは当然で、絶対者、神を対象に話をしているのだから。哲学は、これを省くから、ややこしいのかもしれない。言うに及ばない事実だから。今更、言う必要もないし、本題から、離れてしまう。余計なことは言わない。
話を戻せば。相対的な世界から、相対的な対象の神を見ると自由に見えるのだ。あるいは、自然、あるいは本能は、自由に見えるのだ。自分に不自由があるから、また、そう思うから、さらに、そういう言葉があるから。
神側、絶対者側、絶対おいて、して観れば、どう見えるだろうか。してやった入りか、これは序の口である。問題提起。
我々は、完全ではないので、はっきり言えば、わからないので、選択しなければならないのである。まさに、自由の刑に処されているのかもしれない。見る方向、立場、対象によって、変わるだろう。当然、時間的にも、まさに空間的にも牢獄なのか。
まさに、何様なのか。矛盾。愛と自由。束縛でもある。

"自由について 12" へのコメントを書く