精神的エネルギーとか物理的エネルギーとかについて 12

 植物から恩恵を受けているのは人間だけではないが、我々は精神的に恩恵を受けている。



 昆虫などは物理的に受けているが、人間は生で直接口には出来ないし、出来ても数は知れているし、生ものとしてでも、包丁等が必要である。



 この辺りが、精神的神秘学的エネルギー源と、物理的俗欲的エネルギー源という、二元的考えは神秘学的入り口ではないか。オカルト、原始的カルト、宗教、神話、童話などなど。



 なぜか、むなしさを感じる。若い子供のときのこの手の心の矛盾は、この精神世界への考察に精神的に触れたときのむなしさではないか。ただこれだけのことなのだという虚しさだ。



 そして、電気的なこと、直接には触れられない。というか、微量に精神的に触れる分には何の害はない。あるいは害は少ない。もしかすると健康器具的になる。



 神とか、宗教とか、原子力。宗教的ではないが、道徳的、倫理的、神とか、宗教は理神論的にさておいていて、経済的に社会に貢献する。多くの労働者を抱えて、養うような会社とか人物とか。



 触れられない世界、わずかに触れる、あるいは、グローブをつけて、またルールに則り競う、戦うスポーツマン精神。


 わずかに触れるだけなのだろう。



 精神的にはむなしくもあり、さみしくもある。が、物理的には、幸福で、裕福だろう。











精神分析について 1


 他人から観れば、私の過去なんて、物語や、小説を読んでいたり、漫画を読んだりしているようなものだ。



 もう少し高級な言葉を使えば、その人が劇場にいるようなものだ。



 クリエイトだ、クリエイトだ。











魅力、魔力、暴力について 2


 マスコミュニケーション、所謂、マスコミといわれた。


 または、マスメディア。




 対比された言葉は、パーソナルコミュニケーションだった。


 今、中学の教科書には、どのような文章で印刷されているのだろう。











責任について




 許可を得てから行うということは、そこに責任があるからである。


 許可を得ずにやるということは、責任はそこにはなく、ここにある。


 許可を、賛成をしていなければ、そこになく、ここである。


 聞かないということは、ここにある。


 知って、知らぬ振りとなると、評議する必要がある。


 是が非かは、議論、論議は結論であるが、結果次第である。


 これは結果が出ていない証拠である。


 論議、議論する必要がないのであるのなら、ある程度、結果があるのであるが?











未来について 1



 遠い未来は、見えるのに、近い未来は見えないのではないだろうか。


 未来・・・・・・。



 また、近すぎる未来が見えないとなると、話は違ってくるのである。明日が・・・・・・。である。


 しかし、若いとき、死というものをはっきりと分かるだろうか。私は、今、五十だが、やっと考えられるようになった気がするのである。そして、当然 健康で長寿を考える。










奢り、驕りについて 1



 心をもてあそぶゲームにおいて、勝った人がお金を持っていこうとすると、みんなで分けましょうとか、そのお金どうするんですかは、ないだろう。言葉尻からも、無料ですむわけがない。それも、そのルールを作っておいて、それを守るべき、契約者がお金の出し惜しみをしたりすることは、卑し過ぎると思うのである。参加者は、一生懸命にやっていればいるほど、そんなやつらにおごる気はしない。おごらない人が卑しいのではなく、おごってもらおうとする人が卑しいのである。

















相対的について 3


 すでに、みんなが行っていることに、わざわざ訴えるのは、改革的ではなく、唯の便乗である。そこで、善人ぶって大騒ぎしても、相手にされないのは、至極当然である。


 平和なら、わざわざ騒がないでほしいものである。


 そして、ああ言ったこういったなんてやっているのは、退屈の虫が騒いだだけではないのか。


 平和とはいえなく思えてしまうだけだが、そう思えてしまっても困ったもののようだ。


 なにもないところから、何かはあり得ない。平衡は、平衡のままである。


 しかし、発展、進歩、進化には悪いことはしないことは当然のことだが、よい肯定的、建設的な進歩、発展、行いも、結果も必要である。












相対的について 1




 人間界にのみ善と悪があるようだ。動物界にも、鉱物界にも、植物界にも、人間のような善悪観念は当然ない。


 果たして、全てにおいて、そうなのだろうか。宇宙は相対的なのではなく、ありのままにあるのではないのだろうか。人間は観察者であるがゆえに、相対的なのかもしれない。











喜怒哀楽について



 人間がああだ、こうだ考えずとも、宇宙はそれに値するほど慈悲に富んでいる。


 また自然は、悲しみも、慈しみも、多く見てとれる。


 そして、喜怒哀楽があるのは、人間だけではない。














領域および側面について 4


 魔術的な領域と、神秘学的な領域は逆のベクトル的な方向が存在するのかもしれない。



 しかし、まあ、所詮、人間的な考察であるから、どう捉えようと、その域はでないのであるが











領域および側面について 3




 領域、側面、plane、宇宙意識、立方体でさえ六面あるのだ。面には、裏表あるはずなのだが。六面である。十二面ではない。十一面?M次元?それとも、マジカルなM?幻想とも言えそうなこの世界。この膜世界。この膜をまいて、撚れば紐になる。そして、ワームホールは、幾何学的に閉じたひもとなる。線は、曲がっていても、いなくても最短距離とは言えそうもない、相対論。


 意図しない領域、無意識界は神仏の領域ともいえる。瞑想時は一体となりうる。


 陽極まれば陰、陰極まれば陽。


 二次元の世界は、三次元から見れば、三次元に思えて、厚さがあるように思える。二次元の世界から見れば、1ミリたりとも厚さの方向へは動けないのだが。また、だから、二次元なのである。そして、厚さの見えるはずの方向から見れば、見えないことになる。人間の側から見れば主観。二次元の側から思えば客観。


 光は、粒子と波である。また、不確定な量子。


 プレゼンの場では、あるいは会議の場では、自分がやり玉にあげられない、客観、観客、観光客でいたいのである。お客さんの立場という意味では、どうもとらえきれなかった上司的な気持ちは。これは、冗談か皮肉である。











客観という言葉の嘘についておよび側面について 1



 観光客にはその町の外面しか見えないのである。


 側面としても、中身は見えない。


 また、それに対する、内部自我なのである。我でも己でも構わない。ここでは構わない。我を出せば面なのだ。己でも表現すれば面なのである。


 表現されていなければ、相手の身になっても見えないのである。どんな論法を使おうが、推論である。










忘却について 7



 人は、ついさっきのことさえすでに、忘れるのだ。そして、思い出したくない否定的なことは、そうしなくなるという。



 しかし、思いだしたいときに思いだせる人が、思いださなければならない時に、思いだせる人が賢く、優秀なのだ。



 人は、より学習することによって人間たりうるのではなかろうか。肯定的、建設的に記憶し、思いだそう。











忘却について 6



 物質的なことには一切かかわりのないこと。まだかかわってないこと。願い。


 物質界にかかわるときは、自分の良心に聞くのだ。良心が認めたことを、ただ思い出すことになる。それを行動するかしないかを決めるのは、また、人間の自由の選択に任されているのだが。しかし、妨げになることはないといえる。










忘却について 5


 過去から答えを見つけようとしても、今より良い答えが、多聞に未来よりも見つかるとも思えない。しかし、遠く前世、アカシックは、また別のことである。また、自分のことでもありえる。


 上層意識は忘れても、他の意識は覚えていて、思いだす。そして、思いだすということは、過去のこと。未来のことではない。そして、クリエイトも記憶を利用しているとも言っている。


 では、いつも、尋ねようではないか。自分自身に。











忘却について 4



 輪廻転生も、物質世界に表出される法則である。あるいは、物質世界で思い出される記憶である。物質世界に、通用させるのである。


 机上の空論も、人間の願望も、物質世界に表現されると思い出されるのである。


 因果律の世界。因縁の世界。形而上学的なものは輪廻転生にも通じるのである。いわゆる業であり、カルマであり、エゴであることに通じるのである。


 自分でやらなければ生きていけない、用をなさないことは、忘れてはならない。これはすなわち、物質界、現象界である。これが、自分だけはと主観的に適用されたとき、哲学史は、実存主義へ、移っていくのである。それはなぜか全体主義へと移行する。仕事は仕事、それが済めば、また、家に帰れば、自由である。自分の時間。それが、個人主義、実存主義だったのかもしれない。そして、戦争に勝てば、家に帰れ、自由と平和が手に入ると思ったのであろうか。そして、それからが自分なのだと。


 しかし忘却の場合、客観的なことも、因果律として、因縁として、関連してくるのである。


 いいものはいい。良くないものは良くない。現象していいものはいい。良くないもものは良くないのである。悪いものは良くないのである。肯定的な考えでいることがいいのである。


 哲学的、形而上学的、願望、コスモスへの憧憬は、思い出すための現生、物質世界への法則がある。これは超越論的なため、机上の空論と言われても平気なのである。分析、推論なのだ。たら、れば、である。


追伸

 稚拙な文章で、ご迷惑をおかけしております。











忘却について 3




 物質界を、忘れていいのは、死ぬときだけであるのかもしれない話ではなかろうか。これは、霊界、形而上学的、超越的世界の話である。言い方を変えれば、机上の空論である。そんなことは! と、すべての方がおっしゃると思われます。


 これは、コスモス、哲学的ゾンビ等の話である。その内在的な、数学、物理学で説明できない部分。心の部分。現象にかかわらないもの。


 痛みは忘れてもいいが、約束は忘れてはならない。時間と空間を忘れてはいけない。物理的現象はわすれてはいけない。痛みは、良いのか。


 意識は忘れてもいいが。超越的なことはいいのか、直観的なことはいいのか。


 簡単に言えば、こういうことではないだろうか。屁理屈、理屈など忘れてもいいと言わず、どうでもいいのである。そして、聞きたくもないのである。もう少しいえば、聞きたくない話は、忘れていいと思われるでしょう。


 また、部外者のことである。


 物質的現象的なことは、忘れてはいけない。また、それに関わる因果関係の意識。直観。自然哲学的な部分。


 それ以上の、その次に来るもの、プラスα―の部分。的な。


 妄想、空想、幻想は、思い出したくもないものである。


 ということで、とりあえず、忘れていいものは、思い出したい素敵なもの、素晴らしいもの、好ましいものなど肯定的なものにしておくべきではなかろうか。また、そうあるべきであるのは、疑いない。哲学的科学的医学的にも形而上学的にも正しいだろう。 忘れていいものはいいのであり、忘れてはいけないものはいけないのである。人間の脳は、それをうまく行っているのであると言われている。


 完全性への進化。ゾンビだろうか。


 いいものはいい。わるいものはわるいのである。











忘却について 2



 そして、 忘却した、成功の願いは、祈りは、必ず、未来、自ら最初にするのだ、必ずとらえるのである。言い換えれば、自ら必ず、未来成功を手にするのだ。