あなたはいったい誰なのか。そして、私は、私なのだろうか。誰かの影が見えればそう思うのが筋だろう。誰かわかるほうが筋ではない。ある意識はわかるという。が、私には難しい。という。その私なのか。ある意識、それが私なら間違えるはずがない。ということになる。これのことを言っているのかと思う。
また、他の考えでは、「影にあなたは誰ですか」「そして、私は私なのですか」という魔術的思考も対象となる。
次に、「影に対して(影というが、いつも白く見えるので、光といってもいいが、白い影[Whitehood か]で、shadowではない。)(聞いたことがある文言だなぁ)あなたは誰で、私に用なのか。そして、そうならば、何用なのか。これが普通、筋どおりのセリフだろう。そして、白い影と話し始めるのも筋ではないのか、そうなのか。
さらに、白い影に人格があるのなら、………。ああ、考えが、インスピレーションが。消えた。これも私は誰だったのか。今考えていた私とは。ああ、白い影とは誰で、私はいったい誰なのか。記憶なら私なのだが。ある能力は、私とは考えにくいのかもしれない。この場合、私が誰かに乗り移っていて、誰かを見ているということである。人格者が私を思い、私と思っているとしよう。それでも、客観的に考えて、私だと決定することはできない。たとえ神通力があろうと、おれおれ詐欺のようなものであるのだ。このような力は、すべてそうなるとして、その力を信じれば信じるほど、このリアリティも現象界も、自分自身も信じれないのだ。ということは、「あなたは、人格者なのか」「私は私なのか」「記憶の白い影なら私の思考であるが」「そして、答える、リアリティーにしゃべるのは病的である。」「あなたは誰なのか」は、病的になり、「私は誰なのか」は病的ではなく、健康的ということになる。デカルトか。
「いったい誰なのか」
「自分」
その自分とは、いったい誰なのか。ソウル、魂、掌?
禅の無からでは、無心の自分はいったい誰なのか、であるが。
疑っている私は確かに私だし、そして、信じる私も私なのだ。
では、だましているのは誰なのか。しかし、疑う私は私なのだ。と信じれるのである。
では、禅の無からの、題目なのか。
無心になっている自分はいったい誰なのか。法的自己。アイデンティティだろう。心は、無になれる。自己は、無になると、心だけになる。スピリチュアルな自己。内的自己。自由意志は…。体に閉じこけられて、自由ではない。
自由は、自由なのだ。