裏切りについて 2





 期待をするから、裏切られるのである。


 ただそれだけだろうか。











裏切りについて (自殺において)




 裏切りの、反対は、あるいは逆は守りきることである。


 自分を裏切ることは、ミス、失敗、下手をすれば死なのである。


 生はこの世あっての事なのである。


 はっきりすれば、生がなければこの世は無いに等しい。


 生はまもる、死は守るとはいわない。


 自殺は、守りではない。


 ましてや、善人になってはいけないことなどない。



 守りきるの逆、あるいは反対は裏切りである。


 自分は、守りきらなければならない。あの世でも。


 転生しようと、生まれてこなくてもよかろうと。


 でなければ、すべてが無意味である。


 不死身でなければならない。











自由と平等について 18 1


 自由と平等は、セットで考えるといいのではないか。



 平等でなければ、自由ではない。


 自由でなければ、平等はない。


 このように考えてきたのではないだろうか。


 そして、自由では平等ではない。



 平等では、自由ではないではないか。


 たとえば、民主主義とカースト制度、自衛隊と、戦士とか騎士との違いなのではないか。











自由について 12


 自由奔放とは、逃げることとの相対的言葉ではないのか。自由の反対は不自由ではなくて。そして、家庭的な人とは、人間関係が苦手で、世間から逃げている人であるかもしれない。だから、家庭的な態度も、限界がある。限界を感じると逃げてしまう。


 それがなければ、いいのだ。


 それも一概には言えない。危険からは、遠ざかり、離れなければならない。










神の意志と自由意志について 11


 神がそうしなければいけない、

ならない、

そうしたほうがいいとなれば、

自分がした封印も解くだろう。


 だから、自由でもある。


 嘘も、

 罪も?罰も?

 そして、許しも。










意識について 6




 選択とか、自由とかがある、と人間が言う。それは意識があるように見える、あるいは思えるのではないか。ロボットの一つ二つの選択では、ロボットだ、という人間の意識が強くて、意識あるように思えないだけではないか。多くの選択の余地がある場合、自由がある、という人間の認識ではないか。そして、その選択は、意志ということになり、そして、いつも、子育てに勤しむだけの動物、鳥とか、飲食する昆虫も意識、意志があるように思える。このことには、異論があるだろうか。











意識について 4


 なぜ、意識は眼の辺りから移動しないのだろう。眼をつむると、それは開けている時以上にはっきりすると思うのだが。


 思う場所が、どこであろうと、「今、ここ」にあるのだ。意識はどこへも行けない。自分自身にある。そして、私は、他の誰でもない私である。自我。


 自己言及。愛は愛なのだ。真理だ。



 どこから来て、どこへ行くのかは、死とは、何か。表現では分かるが、知らないのである。知りえていない。誰も未だに、語りえていない、空想、妄想の世界なのだ。それは、神秘家の宇宙。標識、象徴を知らない迷子のようである。科学の宇宙。不確かであり、それは知り得ないというだろう。


 霊と超能力の違いは何といえるのか。それは、物質か非物質的か、ではないだろうか。











意識について 3




 もともと、漠然とした意味のものに、しっかりした意味をつけようとするから無理が生じる。区切りのないもの、たとえば、クオリアに数字をつけるようなものである。√-1=i2乗(あるいは、j2乗)。0.99・・・=-1である。四次元、M次元。数学はエゴである。夢中になれる人が陶酔していくのであろう。いろはにほへとちりぬるおわか…あさきゆめにしよいもせす。人間の定義を変えることもできるだろう。











私はいったい誰なのか、そして、どこから来て、どこへ行くのか 10


 私はいったい誰なのか、そして、どこから来て、どこへ行くのか。



 この題目、命題は、認知症の神様に出会ったのか。味噌くそで、似て非なるものか。



 認知症でなくとも、年を取ればだれでもあるではないか。


 私もたまに思う、いったい今ここへ何の用をするためにこの部屋に来たのだったかな。今何の考え事をしていてこうなったのだろうかとか。



 これを、ラテン語などに訳す。それを再び日本語にすると、どうだろう。似て非なるものかどうか。疑問である。










自分はいったい誰なのか 8


 頭の中で、「お前なんか、……」「お前」「お前」


 頭の中で言うが、お前とはいったい誰なのか。


 「お前」とは自分ではないのか。他人に言っているつもりでも、潜在意識は、自分と思ってもおかしくない状況ではないのか。


 「お前」、自己、を認識する自我。その自分とはいったい誰なのか。ストレンジャー。それとも、やはり他者なのか。それとも、両方。


 「我思う、ゆえに我あり」なのだから。


 「あいつ」「こいつ」ではなく。「お前」……。


 あるいは、「お前」「お前」「お前」………と頭の中で唱えてみる。

 「お・ま・え」。


 「自分はいったい誰なのか」。


 ストレンジャー


 アイデンティティー


 パーソナリティ―











自分はいったい誰なのか 7


 唯名論から、自分の名前などを忘れても、そこに実体、主体は存在する。主体、実体を失っても、そこに、主体、実体はある。本体はある。客体か、超越論的にある。精神の実体として、いわゆる二元論的に。


 記憶を失っても、そこにもある。


 本性はある。実念、実在は、あるいはactはどちらかだ。潜在は、あると言える。現象。


 カルマの記憶は失われない。アダムの子の罪は。命の木も実も、知恵の実も。










自分はいったい誰なのか 6


 私はいったい誰なのか。自分はいったい誰なのか。



 言い換えれば、代数的に、あるいは数学頭的に、置き換えれば、「自我とは、あるいは、自己とは、さらに真我、真如とは何か」と問うているだけではないか。続いて、それが何だというのか。ただ、自分は誰なのか。と問うているだけではないか。


 日本のお経か、一休さんのとんちか、ではないか。まさに、喝である。


 Myselfだ。Inner-selfにしても、私の内の心ではないか。外の心などなく内の心だけである。そこから、主体、客体。外ずら、内ずらでもあるが。こころである。


 「そのこころは」…か。 


 あるいは、逆説的に「そんなの私じゃない」…である。


 じゃあ、その自分は…、いったい誰なのか。


 あなたは、「それ」…である。か…。











自分はいったい誰なのか 5



 自分はいったい何者なのか。ならば、自分は何になり、何をどうすればいいのかと言葉をつづけることができる。たとえば、将来私は何になればいいのか。この世で何をして生きていけばいいのか。どのように云々。


 あるいは、来世で私はいったい誰になるのだろう。また、誰になりたいのだろう。


 そして、このことから、この世に生まれて来て、目の前の人が、これは私ではないと気付いた時、自分はだれなのか。「誰か」かは、わからないが、私ではない人がいて、わたしは、あるいは客観的にそれぞれの自分はいったい誰なのか。












私はいったい誰なのか 4


 あなたはいったい誰なのか。そして、私は、私なのだろうか。誰かの影が見えればそう思うのが筋だろう。誰かわかるほうが筋ではない。ある意識はわかるという。が、私には難しい。という。その私なのか。ある意識、それが私なら間違えるはずがない。ということになる。これのことを言っているのかと思う。


 また、他の考えでは、「影にあなたは誰ですか」「そして、私は私なのですか」という魔術的思考も対象となる。


 次に、「影に対して(影というが、いつも白く見えるので、光といってもいいが、白い影[Whitehood か]で、shadowではない。)(聞いたことがある文言だなぁ)あなたは誰で、私に用なのか。そして、そうならば、何用なのか。これが普通、筋どおりのセリフだろう。そして、白い影と話し始めるのも筋ではないのか、そうなのか。


 さらに、白い影に人格があるのなら、………。ああ、考えが、インスピレーションが。消えた。これも私は誰だったのか。今考えていた私とは。ああ、白い影とは誰で、私はいったい誰なのか。記憶なら私なのだが。ある能力は、私とは考えにくいのかもしれない。この場合、私が誰かに乗り移っていて、誰かを見ているということである。人格者が私を思い、私と思っているとしよう。それでも、客観的に考えて、私だと決定することはできない。たとえ神通力があろうと、おれおれ詐欺のようなものであるのだ。このような力は、すべてそうなるとして、その力を信じれば信じるほど、このリアリティも現象界も、自分自身も信じれないのだ。ということは、「あなたは、人格者なのか」「私は私なのか」「記憶の白い影なら私の思考であるが」「そして、答える、リアリティーにしゃべるのは病的である。」「あなたは誰なのか」は、病的になり、「私は誰なのか」は病的ではなく、健康的ということになる。デカルトか。


「いったい誰なのか」

「自分」


 その自分とは、いったい誰なのか。ソウル、魂、掌?


 禅の無からでは、無心の自分はいったい誰なのか、であるが。


 疑っている私は確かに私だし、そして、信じる私も私なのだ。


 では、だましているのは誰なのか。しかし、疑う私は私なのだ。と信じれるのである。


 では、禅の無からの、題目なのか。


 無心になっている自分はいったい誰なのか。法的自己。アイデンティティだろう。心は、無になれる。自己は、無になると、心だけになる。スピリチュアルな自己。内的自己。自由意志は…。体に閉じこけられて、自由ではない。


 自由は、自由なのだ。










自分は一体誰なのか、そして、どこから来て、どこへ行くのか。また、今どこにいるのか 3 意識について 5




 いつか人間は、働かなくなり、ロボットに任せるのか。そして、ロボットの修理も、ロボットが行う。作ることも、行う。ロボットが、自己増殖する。ロボットが、自然に修理を行えるロボットをつくる。行えるロボットになる。ロボットが自己修理よりも、全く新しい部品で、作ったほうがよいのに気付く。いつか人間のように、おしゃかになるが、新しいロボットは作られている。子供のようだ。部品を交換するより、全体をまったく新しくしたほうが、効率的だからだ。エネルギーを、供給してもらわず、ロボット自ら、補給する。そのように作る。それを自ら作る。


 では、何時、そして、意識はどこから来るのかなどと聞くなかれ。そして、どのように持つようになるのかとも、聞かないでほしい。すでに、この宇宙にあるものなのだから。ないものが、あるようになるような問答はよそうではないか。










自分は一体誰なのか、そして、どこから来て、どこへ行くのか。また、今どこにいるのか 2


 自分を一生懸命守っている自分は一体誰なのか?


 それを誰が創ったのか?そこには、愛、慈悲?!…が満ちている。










自分は一体誰なのか、そして、どこから来て、どこへ行くのか。また、今どこにいるのか 1





 誰もが、持っていたから、周りにも備わっていたから、遍在とわかったのである。だから、愛は、・・・である。


 ワンネス!宇宙は唯ひとつ!


 自分がここにいるという事実、摂理。それが愛であると言う、確信。


 愛は、永遠でない恐怖。細切れの見捨て。偏在という、永遠、無限。


 これが愛でないという矛盾。


 自分は神/創造主の光、命、愛の表現であり、遍在である。・・・に遍在する。


 神/創造主は父であり、母であり、兄弟であり、家族である。友である。この世では、皆、友達である。恋人であり、愛人でもある。そして、良心。


 どこから来て、どこへ行くのか。この家族から来て、この家族へ帰るのである。


 あるいはまた、友人へ恋人へ、愛人へ、良心へ会いに行くのである。











自殺について 10



 自分の命であろうと、殺すことは、犯罪だ。


 単純なことである。


 他殺の場合、だれが訴え、裁くのか。


 親、家族、親類縁者、法。











自殺について 8


 それが、幸福なら幸福を願っていることに違いはない。


 そして、この世に幸福があれば、同じ幸福ならば、こちらの幸福を選ぶだろう。それ以上なら、間違いないのである。














自殺について 7


 願い、望み、願望、自殺、自殺願望、死んだほうがまし。存在の否定。殺されたい。罪つくり。生への否定。なぜ生物はいるのか。なぜ人類は誕生したのか。何のために。


 一生懸命生きている人がいるのに。生きたい人がいるのに。わざわざモルモットで実験が行われているのに。どうしようもなく、臨床しているのに。この否定的存在はいったい何者なのか。さらに、そういう存在なのか。











自殺について 6




 ずるい、のだ!


 その人にとってはそれが幸福なのかもしれない。


 仏教的にはそうは言わない。「不幸があった」のだ。


 狡賢いのかもしれない。



 「ずるいぃ、自分だけぇ」である。



 しかし、逆説的であっても、自身は幸福しか求めないのである。主観的に。歴史的客観的にも。


 あとは、幸せ、平和をまもるしかないのだ。