不滅について


 無から現れようと、無に帰さないと言おうと、無に帰そうと、現在あるならば、それは不滅ではないだろうか。増してや、無に帰すこと、無から現れることがあるなら。不滅というのなら、不滅だからこそ。無に帰してこそ、そして現れてこそ不滅ではないだろうか。

「なぜ、生まれたのか。」

 なぜ、我々は、人間なのか。
 進化が足りないとは、どういうことだろう。どこかに、完全性があるのだろうか。
 人間は、あるいは、地球は、どのような過去から、今に至り、どのような未来になって行くのか。あるいは、神の創造であり、神のみぞ知るのか。人間は霊長類であり、神/創造主の属性、従属なのか。魂とは。心とは。これらは、どこから来て、どこへ去っていくのか。異次元なのか、それとも、宇宙のどこか。それでも宇宙なのであるまいか。その外あるいは異次元の神の元なのか。別に神という言葉を使わなくてもいいのだが。

 人間の精神的、肉体的、あるいは、霊的進歩について、などと問うのは、とてもおかしさを感じるのである。獣でも、植物でも、確かに進化しているのではないだろうか。獣でも、植物でも、生きるために、努力していないだろうか。ある意味で、もしかすれば、人間よりも、一生懸命生きているのではないだろうか。したがって、ただ、単純に努力しているのかいないのか。努力しなくても、進化するのか、あるいは進歩するのだろうか。言い換えれば、意識して努力しなくても、進化するのだろうか問うてみたい。
 
 今、ものにも、記憶力、言い換えれば、記録なのだが。それを疑う人は、いないだろう。DNA,RNA等、ウイルスが記憶によっていることは、言うまでもないのだろう。コンピューター関連は、記憶である。未来が見えるわけではないのだから。あるいは、ある治療法が、見透かせるわけでもない。人間にも分からないのだ。しかし、努力しているのは、人間ではないだろうか。しかし、進化は、やさしく、正しく、緩やかに、穏やかに、出なければ絶滅している。破壊的であるが、生き残る力とは、何だろうか。物質的な力なのではないのだろうか。

 さて、人間は何時、意識というもので考え始めたのだろうか。神の思し召しだろうか。獣にも、あるいは、もしかしたら、植物にもあると言えるかもしれない。知性、昆虫はどうだろう。理性、理解。何のことはない、摂理に従属している。意識の進歩、科学、知性・理性、社会の進化、サルにも、蜂にもあるではないか。しかし、人間の進歩は、努力である。秀才は、努力なのだから。しかし、人間の言葉は、宇宙にあるもの全てだけ、またそれ以上の言葉があるのだから、経典、あるいは、科学のようにまたは、物質の…混沌に帰すのである。

 もう、いいでしょう。創造だろうが、進化だろうがどちらでもありうるほど、宇宙は広いのである。我々人間が、どちらかだったか、あるいは、両方だったかである。それだけのことである。ただ、死は避けられていない。努力は、何時の時代でも、しているのではないだろうか。生き永らえるための。

 進化が、破壊的であろうが優しく、穏やかで、正しくあろうが、あるいは創造であろうが、変わらないのである。死は免れていない。人は、努力するべきであるのは、言うまでもない。物質は、ある意味不滅であるが、死への意識は、ただ、不滅の魂へと向かうのである。混沌とするほどの言葉で。また、なぜここに生まれたのか。なぜ死ぬのか。さらに、羽が欲しいのだろうか。そんなもの邪魔にならないだろうか。海は便利だろうか。もっと、何が優れたいのか。身長は高くなっていないだろうか。頭の良さなのだろうか。ただ、金持ちになりたいのか。自由のためになぜ戦ったのか。

 無からは、何も出ず、無限の中の有限で、何かするべきと思うのは、意識ある限り必然となる。



不滅の意識
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